王国としての歴史


カルパチア盆地という肥沃な国土を抱えるハンガリーは、多くの民族が侵略を目指す領域でした。しかし、1000年からの1000年近くにわたってハンガリー王国が維持され、オスマン帝国の侵略も跳ね返し、「ドナウの真珠」と称される綺麗な街並みを作り出しました。
王国前史

古代にパンノニアと呼ばれていたハンガリーは紀元前1世紀にローマに占領されましたが、4世紀後半にフン族が侵入。今のブルガリアやルーマニアの一部を含む独立国家が誕生しました。アティラ王の時代にはローマ帝国の一部も支配下に収めましたが、アティラが40歳で死亡したため、フン族が内部分裂しました。その結果、6世紀にはアヴァール民族が侵入、8世紀にはフランク王国の支配下になりましたが、9世紀にはいるとウラル山脈を起源とするマジャル人(ハンガリー人)が移住し始めました。 ハンガリーではHungaryのHun(ハン)は「フン族のフンから来ている」との説が根強く聞かれます。この説の真偽は不明ですが、駐日ハンガリー大使館の説明文に「定住したユーラシア大陸のもっとも西に住むアジアの民の暮らす国」との記述があるほど、ハンガリー人の中にはアジア人意識があるのも事実です。 また、アティラ王はハンガリー以外の西側の国々では残虐な王として見られてきた面がありますが、ハンガリーでは今も国父、英雄であり、アティラの名を持つ人も多いです。ワイナリーにもアティラ・ワイナリーという素晴らしいワイナリーがあります。
1000年王国

マジャル人はさまざまな戦いを経て支配地を広げるなかで、キリスト教の布教容認を決定。1000年にはイシュトヴァーン1世がローマ教皇から戴冠を受けて、ハンガリー王国が成立しました。1918年、ハンガリー革命によってハンガリー民主共和国が成立するまでの1000年近く、さまざまな侵略、二重帝国の憂き目に遭いながらも王国は存続したのです。 ハンガリーの領土が最も大きかったのは、12世紀から13世紀にかけて。今のスロバキアやクロアチア、ルーマニアの一部であるトランシルヴァニアなどが含まれ、その領土はイタリアの付け根に届き、アドリア海に面していました。今のハンガリー人が郷愁をもって語る「大ハンガリー」時代です。 17世紀末までの150年間は、強大化したオスマン帝国(トルコ)に幾度となく攻められた結果、オスマン帝国とハプスブルク家に分割統治されました。その後はハプスブルグ家の支配下に入りましたが、19世紀半ばの独立運動などを経てオーストリア=ハンガリー帝国が成立。このころからハンガリーでは資本主義が浸透し、首都・ブダペストに地下鉄が整備され、多くの立派な建物が建設されるなど、ヨーロッパ有数の近代都市として発展しました。 このころの皇帝・フランツ・ヨーゼフ1世の皇后で、シシィの愛称で知られるエリーザベトはハンガリーに滞在することが多く、シシィのために作られた立派な建物は今もブダペストの観光地の1つであり、ドナウの真珠と呼ばれる景観を構成しています。シシィがよく通った喫茶店は今も残り、多くの人に親しまれています。
ポスト王国

1000年近く続いたハンガリー王国は1918年に消滅。1920年には新たなハンガリー王国が成立し、第一次大戦の敗戦国として連合国とトリアノン条約を締結した結果、今の国土に落ち着くことになりました。 新しいハンガリー王国は第二次大戦で、日本と同じ枢軸国として敗戦。1946年2月には王制が廃止されてハンガリー共和国(第二共和国)が成立しました。ただ、ソ連の占領下に置かれたため、1949年にはハンガリー人民共和国としてソ連の衛星国となりました。 共産主義体制に対する反発は根強く、1956年にはハンガリー動乱が起こりましたが、鎮圧されました。1980年代後半になるとハンガリー民主化運動が開始され、1989年10月にハンガリー共和国が成立。2010年に首相に就任したオルバーン・ヴィクトルは、学生時代から社会主義体制への抵抗運動を始めた民主化の旗手として知られています。